瑩山和尚傳光録(仏洲仙英開版・早印本)

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en Keizan-osho denkoroku (Sen'ei-bon, Early printed),

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  • 瑩山和尚傳光録(仏洲仙英開版・早印本) 乾
    本資料は、仏洲仙英(1794~1864)が開版した『伝光録』の早印本である。 『伝光録』は、日本曹洞宗の太祖と尊称される瑩山紹瑾(1264~1325)が、加賀大乗寺にて弟子たちに行った講義を、侍者が筆録したものである。現今の曹洞宗においては、道元(1200~1253)の『正法眼蔵』と並んで根本宗典に位置づけられている。 『伝光録』では、釈尊から懐奘(1198~1280)に至るまでの、紹瑾の法系に直結する1仏52祖の悟りの機縁が、伝法の順序にしたがって取り上げられ、解説が施される。 紹瑾は、道元―懐奘―義介―紹瑾という法系に連なるため、師翁(法系上の祖父)の懐奘まで講義をしたことになる。『伝光録』の講義が開始された正安2年(1300)の時点では、師匠の義介(1219~1309)は在世中であったため、講義が行われなかったと考えられる。 『伝光録』という書名は、「日本曹洞宗に連なる歴代祖師が伝えてきた光の記録」といった意味になるが、ここでの「光」とは、道元が伝えた「正法」(仏の正しい教え)と理解して差し支えない。つまり、道元が『正法眼蔵』などの著述において闡明した「正法」の歴史的伝承過程を、紹瑾は『伝光録』において明らかにしたのである。 『伝光録』は、近世末にいたるまで書写のみによって伝承されてきた。『伝光録』が初めて刊行されたのは、幕末のことである。開版したのは、彦根清涼寺の仏洲仙英で、上梓に至るまでの約20年におよぶ経緯は、仙英自身が撰述した「凡例」に詳しい。仙英開版の『伝光録』(以下、「仙英開版本」と称す)は、安政4年(1857)に京都書肆の柳枝軒より2冊本(乾・坤)として版行されている。柳枝軒は、2代・小川多左衛門が儒者・貝原益軒(1630~1714)の書の版権を独占し、文化文政期に栄えたことで知られるが、近世曹洞宗の御用書林でもあったことから、仏書も広く扱っていた。 仙英開版本は、大乗寺所蔵本(散佚)・永光寺所蔵本・仙英所持本(不明)・諸方明徳書写の写本(不明)・無隠道費の序文が付された写本(不明)などを校勘したものであるが、仙英開版本と現存する古写本の本文を比較すると、本文の改変・増広などが随所に見出され、問題も多い。可睡斎所蔵本(1845年書写)が仙英開版本と類似した本文を持つことが指摘されているものの、まったく同一ではなく、いずれの写本を底本としたかは明らかでない。このように、仙英開版本の本文成立過程については、未解明の部分も多く、今後の研究が俟たれる。 以下、本資料の書誌的事項を列挙し、他本との比較を通して刊行年代の比定を試みたい。 表紙題簽は「瑩山伝光録 乾(坤)」、巻首題は「瑩山和尚伝光録」となっている。 匡郭は四周単辺無界、黒魚尾、版心に「伝光録 乾(坤)」、版心下部に「祥寿山蔵」(清涼寺の山号)とあり、乾巻末尾に墨釘が見られる。また、坤巻の裏見返しには「岡部武助正孝」と、旧蔵者の署名が存する。 版心や匡郭部分を見ると、版木の摩滅がほとんど見られないことから、早印本と判断される。より詳細な刊行年代を比定するため、他本との比較を行ってみよう。本館には、もう1本の仙英開版本(資料番号:0340327・0340328)が所蔵される。こちらには、坤巻(下巻)の46丁表(版心では「百二十」と表記されるが、これは乾巻から通しで付された丁付)において、『五灯会元』・『永平広録』・『訂補建撕記』の参照を求める頭注がある。しかし、本資料には、この頭注は見出されない。仙英開版本は、安政6年(1859)に再刊されているため、この頭注は再刊時に増補されたものであると見られる。この見解は、近代以降に印刷された仙英開版本において、頭注が継承されていることからも裏付けられる。 また、両者では異なる刊記が使用されており、早印本である本資料の刊記は、初刊時の刊記である可能性がきわめて高い。 ここから、本資料は仙英開版本の初版本であると判断され、刊行年代は安政4年から同6年のあいだと比定される。 最後に、仙英開版本を底本に刊行された出版物として、明治18年(1885)に大内青巒(1845~1918)が鴻盟社より刊行した『伝光録』(以下、「大内本」と称する)を挙げておきたい。大内本は、「諸岳山蔵版」として刊行されたことにより、おおいに流布し、近年まで権威的な書として扱われてきた。しかし、大内本は、仙英開版本にかなりの修訂を施しており、その結果として誤読が生じるなど、非常に問題の多い本文となっていることは注意を要する。平成17年(2005)に曹洞宗宗務庁より刊行された『伝光録』は、大内本を底本としている。 【参考文献】 山端昭道「「伝光録」仙英本と可睡斎蔵本について」、『宗学研究』13、1971年 松田文雄「『伝光録』にまなぶ(1)」、『跳龍』384、1980年 藤井隆『日本古典書誌学総説』、和泉書院、1991年 池田魯參「伝光録―さらなる宗旨の展開(1)―」、『曹洞宗報』892、2010年 中野何必「近世京都書肆柳枝軒小川多左衛門について」、『印度学仏教学研究』67―2、2019年 横山龍顯「松山寺本『伝光録』の書誌と本文」、『鶴見大学仏教文化研究所紀要』25、2020年 (愛知学院大学 横山龍顯)
  • 瑩山和尚傳光録(仏洲仙英開版・早印本) 坤
    本資料は、仏洲仙英(1794~1864)が開版した『伝光録』の早印本である。 『伝光録』は、日本曹洞宗の太祖と尊称される瑩山紹瑾(1264~1325)が、加賀大乗寺にて弟子たちに行った講義を、侍者が筆録したものである。現今の曹洞宗においては、道元(1200~1253)の『正法眼蔵』と並んで根本宗典に位置づけられている。 『伝光録』では、釈尊から懐奘(1198~1280)に至るまでの、紹瑾の法系に直結する1仏52祖の悟りの機縁が、伝法の順序にしたがって取り上げられ、解説が施される。 紹瑾は、道元―懐奘―義介―紹瑾という法系に連なるため、師翁(法系上の祖父)の懐奘まで講義をしたことになる。『伝光録』の講義が開始された正安2年(1300)の時点では、師匠の義介(1219~1309)は在世中であったため、講義が行われなかったと考えられる。 『伝光録』という書名は、「日本曹洞宗に連なる歴代祖師が伝えてきた光の記録」といった意味になるが、ここでの「光」とは、道元が伝えた「正法」(仏の正しい教え)と理解して差し支えない。つまり、道元が『正法眼蔵』などの著述において闡明した「正法」の歴史的伝承過程を、紹瑾は『伝光録』において明らかにしたのである。 『伝光録』は、近世末にいたるまで書写のみによって伝承されてきた。『伝光録』が初めて刊行されたのは、幕末のことである。開版したのは、彦根清涼寺の仏洲仙英で、上梓に至るまでの約20年におよぶ経緯は、仙英自身が撰述した「凡例」に詳しい。仙英開版の『伝光録』(以下、「仙英開版本」と称す)は、安政4年(1857)に京都書肆の柳枝軒より2冊本(乾・坤)として版行されている。柳枝軒は、2代・小川多左衛門が儒者・貝原益軒(1630~1714)の書の版権を独占し、文化文政期に栄えたことで知られるが、近世曹洞宗の御用書林でもあったことから、仏書も広く扱っていた。 仙英開版本は、大乗寺所蔵本(散佚)・永光寺所蔵本・仙英所持本(不明)・諸方明徳書写の写本(不明)・無隠道費の序文が付された写本(不明)などを校勘したものであるが、仙英開版本と現存する古写本の本文を比較すると、本文の改変・増広などが随所に見出され、問題も多い。可睡斎所蔵本(1845年書写)が仙英開版本と類似した本文を持つことが指摘されているものの、まったく同一ではなく、いずれの写本を底本としたかは明らかでない。このように、仙英開版本の本文成立過程については、未解明の部分も多く、今後の研究が俟たれる。 以下、本資料の書誌的事項を列挙し、他本との比較を通して刊行年代の比定を試みたい。 表紙題簽は「瑩山伝光録 乾(坤)」、巻首題は「瑩山和尚伝光録」となっている。 匡郭は四周単辺無界、黒魚尾、版心に「伝光録 乾(坤)」、版心下部に「祥寿山蔵」(清涼寺の山号)とあり、乾巻末尾に墨釘が見られる。また、坤巻の裏見返しには「岡部武助正孝」と、旧蔵者の署名が存する。 版心や匡郭部分を見ると、版木の摩滅がほとんど見られないことから、早印本と判断される。より詳細な刊行年代を比定するため、他本との比較を行ってみよう。本館には、もう1本の仙英開版本(資料番号:0340327・0340328)が所蔵される。こちらには、坤巻(下巻)の46丁表(版心では「百二十」と表記されるが、これは乾巻から通しで付された丁付)において、『五灯会元』・『永平広録』・『訂補建撕記』の参照を求める頭注がある。しかし、本資料には、この頭注は見出されない。仙英開版本は、安政6年(1859)に再刊されているため、この頭注は再刊時に増補されたものであると見られる。この見解は、近代以降に印刷された仙英開版本において、頭注が継承されていることからも裏付けられる。 また、両者では異なる刊記が使用されており、早印本である本資料の刊記は、初刊時の刊記である可能性がきわめて高い。 ここから、本資料は仙英開版本の初版本であると判断され、刊行年代は安政4年から同6年のあいだと比定される。 最後に、仙英開版本を底本に刊行された出版物として、明治18年(1885)に大内青巒(1845~1918)が鴻盟社より刊行した『伝光録』(以下、「大内本」と称する)を挙げておきたい。大内本は、「諸岳山蔵版」として刊行されたことにより、おおいに流布し、近年まで権威的な書として扱われてきた。しかし、大内本は、仙英開版本にかなりの修訂を施しており、その結果として誤読が生じるなど、非常に問題の多い本文となっていることは注意を要する。平成17年(2005)に曹洞宗宗務庁より刊行された『伝光録』は、大内本を底本としている。 【参考文献】 山端昭道「「伝光録」仙英本と可睡斎蔵本について」、『宗学研究』13、1971年 松田文雄「『伝光録』にまなぶ(1)」、『跳龍』384、1980年 藤井隆『日本古典書誌学総説』、和泉書院、1991年 池田魯參「伝光録―さらなる宗旨の展開(1)―」、『曹洞宗報』892、2010年 中野何必「近世京都書肆柳枝軒小川多左衛門について」、『印度学仏教学研究』67―2、2019年 横山龍顯「松山寺本『伝光録』の書誌と本文」、『鶴見大学仏教文化研究所紀要』25、2020年 (愛知学院大学 横山龍顯)